いつもお土産をありがとうございます。

北海道のお土産「白い恋人」と岡山のお土産「きびだんご」をいただきました!(写真はきびだんごです)

 

いつも美味しいお土産をありがとうございます!!

 

束の間の秋休みを楽しんでいらっしゃるようで、

こちらも嬉しくなります^^

 

今週は附属生たちが秋休みに入り、

早くも広島に行くという子や東京に行く子から楽しみにしているという話を聞いています。

目一杯楽しんできてほしいなと思います!!!

 


一方、学習の方はというと...

中学3年生たちが来たる学力診断に向けて、毎日必死になって学習をしています。

 

○×をつけるだけが勉強ではないと伝えるのですが、、、なかなか浸透せず><

自分から学ぶようになるというのはなかなか難しいですね。

 

そんな中でも、質問の回数が伸びたり、質問の内容が濃くなったり、

学校の空いた時間でできなかったところを重点的にやってみたり、

今までには見られなかった姿も見えるようになってきました。

 

まずはあと数ヶ月。

初めての受験にどれだけ真摯に向かうことができるか、楽しみです^^

 

 

 

さて、話は長くなるのですが、

自ら学ぶようになるということはどういことなのでしょうか。

 

例えば問題をひたすらといて、過去問をひたすら解いて、なんとなく点数をあげることはできます。

そうすれば自信がついて、自分からやるようになるのかもしれません。

 

でもこれって、自ら学ぶようになるっていうことでしょうか。

(もちろん点数が上がったことで、勉強量が増えて、その結果上手く歯車がかみ合って学んでいくことはあると思います。)

 

上記のように一時的に成績を伸ばした多くの子たちは、

仮の自信でだましだましやるようになり、

学年が上がるたびにガクッと成績は下がっていきます。

 

理由は簡単で、理解せずに形で覚えているだけだからです。

 

人の記憶など本当に曖昧で、

「なんだ簡単じゃん!」と思った手順も、半年もすればあっという間に忘れてしまいます。

 

生徒たちに何度も同じ説明をして、何度「あーわかった!簡単じゃん!」と言われたか分かりません(笑)

もちろん、私もパソコンの操作をネットで調べて、毎回「これ便利じゃん!」と思っては次に使う時に忘れています(笑)

 

私たち人間は、天才でない限り、普段使っていなければ忘れてしまう生き物なのです。

(忘れるという行為が、人を人らしくさせているという話もありますから当然ですね)

 

もしかしたら、頭の中に残っているのかもしれませんが、

膨大な情報量の中では探し出すことが難しいのかもしれません…。

 

 

話を戻します。

 

現代の中学生たちの学習は、残念ながらテストに向けたものになっています。

しかもそのテストは年々難しくなり、何を評価したいのか分からないテストもあります。

 

テストに翻弄されて、学びを辛いものだと感じてしまう日々です。

そんな姿をみるたびに、テストなんてなくなればいいのにな〜なんて思ってしまいます。

 

テスト自体が悪いものだとは思わないのですが、

教えてもいないものをテストするのはどうなのかなと思うこともあります。

 

しかし、全てを教えなければならないかというとそうでもない気がします。

だからこそ、物事と物事のリンク付けができるようになることを指導していかなければならないのではないかと思うのです。

 

どうせテストするなら、A4用紙1枚分のカンニングペーパーは作ってよし!くらいのテストにしてもいいんじゃないかと(笑)

そのほうがよっぽど勉強する気がします。テスト範囲は無限大に広がりますよね(笑

 

今は情報が溢れすぎて、自分でもがくこともなく情報が日々頭の中に入り込んできます。

自分で覚えようとしなくても特に問題がないのです。

 

小学生の頃は、友達の家の電話番号をそらで言えましたが、

今はそんなことをしようとも思いません。

漢字だって読めなくてもsiriが教えてくれます。

特に不便さを感じることもなく、それが普通であるとする時代です。

 

便利さを追求した結果、考えなくてもある程度の幸せは手に入る時代になりました。

もがきながら工夫するということもありません。

 

 

そんな中で、テストだけが「ちょっと考えればできる問題だ」と主張してくるのです。

「でもちゃんと知識も覚えていてね」って主張してきます。

「知識を覚えておく」ことに加えて「ちょっと考えれば」が追加されてしまったのです。

 

生活の中であえて「覚える」必要もなければ、「考える」必要もなくなっている時代です。

「ちょっと考える」暇がない時代に、その暇を作っていく工夫を求められているわけです。

 

相関があるかはわかりませんが、

点数が伸び悩んでいる生徒たちの多くが、

問題文の意味(意図)が読み取れずに、白紙のまま提出してしまいます。

もがくこともなく、長い文だから最初から諦めてしまうのです。

 

生徒たちに解説する大概が「問題文の読み方」です。

これはたくさん問題を解いたからといって埋めようがない部分です。

文章を丁寧に、正確に読むことができるかどうかだからです。

 

 

もちろん慣れてもらうためには、たくさんの問題を解いてもらいます。

しかし、そもそもの学力を伸ばすためと言いつつ、

それがテストに向けたものになっていることがどうなのかな〜、といつも疑問に思います。

 

 

 

小学生の子たちの方が生き生きと学習している理由がここにあるのかなと思います。

 

いっぱい自分で考えられる時間をつくることができるからです。

 

面白いことに、みかんせいの生徒たちの多くが「自分で解ききりたい!」と言います。

習っている、いないは関係ありません。

 

困っているときにちょっと手を差し伸べようとすると、「ヒントはまだいらない!」と言う生徒もいます。

本当に困った時には「ここまでやったけど、やっぱり何が違うか分からない」と助けを求めることもできます。

 

自分から学ぶってそういうことなんじゃないかなと思います。

自分で自分の限界値をどんどんと破っていきます。

 

テストで点数が取れるかどうかではなくて、一つの問題に対してどこまで真剣に考えられたかということ。

どんな手段を使って、目の前の敵を倒そうかと考え抜いていくことなんじゃないかと、ふと思います。

 

 

 

そんなことを言っていても仕方がないのですけれど...

 

テストをさせる側の目的は何でしょう。

最近の「とある学校のテスト」を見ていると、

テストをする、それも「解けなさそうな難しいことをテストする」ことが目的になっていて、

本来の目的である「個人の学習の深度を測る」ことになっていないような気がします。

 

テストは手段に過ぎません。

しかし、手段が目的化すると、

ひたすらに「やる人(被る側、この場合は生徒側)が苦しむもの」になってしまいます。

苦しませることにフォーカスが移り、

テストの目的の一つである喜びや自信を与えることが忘れられてしまうのです。

 

これは、最初は「指導」だったものが、いつの間にか「相手を苦しめるもの」になり、

行き着く先は「弱者を作り、いじめる」という過程と同じです。

相手が反抗(反攻)してこないことを知っていて、過酷で過激なことをしていくんです。

とてもとても悪質で陰湿です。

こういう心理は囲われた狭い場所ではよく起こってしまうことなんです。

どこかの学校の先生たちがこんなことをやってましたよね。

暴力っていうのは、力の不当な行使であって、

何も殴る蹴るだけが暴力ではありませんからね。

権力という名の暴力はとんでもなく怖いものです。

あー、ヤダヤダ(笑)

 

さて、そんな時事問題はさておき、

テストを作る側が最も難しいテストって何かわかりますか?

それは「全員が100点を取るテスト」です。

もちろん、その学年に応じた内容で、です。

中3生に小1生の算数のテストをしたって何も試すことはできないですからね。

 

だから、学校サイドには、

全員が100点を取れるテストを作ってくださいと、

そして実際にテストしてくださいと、

その結果を見てくださいと、

それが、先生、あなたの指導の賜物なんですからと。

もちろん、生徒も真剣に学習しないと取れないくらいのレベルのテストで、です。

きっと多くの先生は「無理だ。生徒によってレベルが違うから」というでしょう。

その通りかもしれません。

そして、そのことを知っていながら「全員に対して一律のテストをすること」に

果たしてどんな意味があるんでしょうか。

これが手段の目的化、つまり「テストをすることそのものが『目的』になっていて、

本来の目的である個人の学習の深度を測ることになっていない」ってことです。

 

学習の本来の目的は「自分の頭と心を成長させること」だと個人的には思っています。

自分のことと周りのことを考えること

考えたことを実行すること

そのために観察すること

観察したことを理解し、認知することだと思います。

そうすれば、己の欲せざるところ人に施すことなかれ、

つまり、自分がやられて嫌なことは人にはするな、

自分がしてもらって嬉しいことを人にもしようってことがわかってきます。

 

テストって言葉の意味は「試す」です。

試すことがテストって意味です。

だから、何をテストするかというと、

自分で学習してきたことを誰かに伝えることであり、

その深度だと思います。

上手下手はあるかもしれませんが、

どれだけ時間を費やし、

どれだけ気持ちを費やして、

何を得てきたのか、

その結果を試すのがテストです。

なので、テストなんて、

白紙を渡して「学んできたことを書きなさい」でいいんですよ(笑)

 

その内容を評価すればいいと思います。

それも生徒たちの101段階の自己評価でいいんです。

 

自己評価後、先生たちは生徒たちにこう質問するのです。

「この自己評価の基準を教えてくれないか」

その質問の質疑応答までを生徒たちの評価として、

先生サイドは判断すればいいんじゃないかと思います。

まぁ…「努力してきました!」「頑張ってきました!」は

評価の対象にはならないでしょうけど(笑)

ここはあくまでも「結果」を優先させないといけないでしょう。

そこまでがテストなんですから。

 

ということで、

みかんせいはこれからも「白紙テスト」を大事にしていき、

生徒達が正当な自己評価ができる学習環境を整えていきます。

冒頭の「自ら学ぶようになるということはどういうことか」ですが、

その答えは…きっと生徒達自身が自分のために考えてくれることだと思います。

他人の評価も大事ですが、正当な自己評価ができる人になっていくこともまた、

日々の学習をする理由になりますからね。